昭和時代のセックス・性風俗・オナニー事情

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PAETNER編集部
公開, 更新 , セックス

平成生まれもアラサーを迎える今日では、昭和期の暮らしは想像しにくくなっています。今はネットなのでいくらでもエロ画像や動画が見れますが、ネットのなかったk時代に、どのように性欲を解消していたのか気になる人も多いでしょう。

現代とは通信環境も流通事情も異なる昭和のアダルト事情がどのようなものだったか、新元号を迎えた今だからこそ振り返ってみましょう。なお、本記事では昭和年間の中でも第二次世界大戦以降を取り上げています。

昭和のエロ本事情

昭和時代は「エロ本」がアダルトメディアの一分野として確立されていました。それも、1980年代はじめ(昭和55年頃)にアダルトビデオが登場するまでは市販されているアダルトメディアの中ではエロ本が最も一般的でした。

昭和エロ本では雑誌が主体

エロ本の中でも最も求めやすかった書籍形態は雑誌です。アダルト雑誌の歴史は古く、終戦直後の1946年(昭和21年)には退廃的な「カストリ雑誌」と呼ばれるアダルト雑誌がブームとなりました。

その後、1970年代(昭和45年~)に「ビニ本」が登場し好評を呼びます。ビニ本とは、ビニール包装がされた状態で販売されていたアダルト雑誌のことで、中身を見るためには買うしかありませんでした。

中には、自動販売機で販売される「自販機本」というものもありました。1970年代~1980年代には硬貨を入れる形式のアダルト雑誌自販機が置かれており、誰とも顔を合わせず買えた利点から大評判となっています。

雑誌以外の昭和エロ本

雑誌の他に、小説や漫画、写真集など様々な書籍形態でエロ本は販売されました。一般漫画ではあったものの1970年には永井豪の「ハレンチ学園」が当時の子ども達に大きな影響を与えています。

1971年には当時11歳であった大上亜津佐のヌード写真集が販売され、その内容が問題とされました。

昭和の(エロ)テレビ番組

1953年(昭和28年)に日本で初めてテレビ放映が開始されました。どのようなメディア媒体にもアダルト分野は入り込むもので、1960年代からエロいテレビ番組が放映されます。

エロいテレビ番組は、テレビがお茶の間に置かれていた関係からお色気程度の描写に留まっており、多くは深夜に放映されていました。

昭和のエロテレビ番組のはじまり

日本初のエロテレビ番組として1955年(昭和30年)4月から放映されていた「ミュージックホール」が挙げられます。この番組は後々ストリップダンサーとして名を馳せるダンサーが多く参加しており、扇情的な踊りを見せる番組でした。

その後エロテレビ番組は盛り上がりを見せ、1960年9月には乳首を出したという伝説を持つ「ピンクムードショウ」、1965年11月には25年間にわたる長期放送となった「11(イレブン)PM」が開始されます。

昭和のエロテレビ番組は規制が甘い

現在では考えられないことですが、昭和の頃の放送コードは今よりだいぶ緩いものでした。乳首やパンツは当たり前、中にはアクシデント的に局部が映り込むものもあります。

1986年(昭和61年)から本格的に開始された「志村けんのバカ殿様」はエロテレビ番組の代表格と言え、番組内では腰元たちのおっぱいポロリが見どころの一つとなっていました。

昭和の風俗事情

昭和期の風俗事情は現在とあまり変わりません。性風俗店のバリエーションはそれほど変わっておらず、 歓楽街の位置も昭和期のものが今まで続いています。現在との違いといえば、派遣型の性風俗産業が無かったくらいです。

昭和の本番あり風俗店

第二次世界大戦までは本番行為を行ってよい性風俗店は遊郭が代表的でした。敗戦後はGHQが定めた公娼制度廃止によって遊郭は表向きは料理店などに姿を変えます。

こうして料理店などの形態を取り売春を続けていたお店は「赤線」と呼ばれ、1958年(昭和33年)の売春防止法まで続けられました。名前の由来は、売春行為が行われた地域を地図では赤色の線で区分けしていたからと言われています。

続いて主流となった風俗店の形態が「トルコ風呂」です。現在ではソープランドと呼ばれているこの店舗形態は、1951年(昭和26年)にその原型が始まったとされています。

昭和期だけの風俗店も

性風俗店は流行の移り変わりが激しいため、昭和期には現在では見られなくなった営業形態も存在します。例えば、「ノーパン喫茶」はその代表です。

ノーパン喫茶とは従業員がノーパンで接待するお店で、1980年頃の若年層を中心に人気を集めていました。その流れは1990年代末の「ノーパンしゃぶしゃぶ」店に受け継がれました。

その他の昭和期の風俗店は?

本番行為のある性風俗店以外では、ピンサロは1960年代から存在が確認されていますし、性感エステは1970年代に、SMクラブは1950年代には成立していました。現在の性風俗産業の形は昭和期にはすでに完成されていたと言えます。

昭和のカップル・夫婦関係(セックス)は?

昭和期の性倫理としては現代より貞淑を重んじる傾向がありました。戦中から「男女七歳にして席同じうせず」という言葉に代表される厳粛な価値観が存在しており、敗戦後も男女関係は清くあるべきという考えが根強く残っていました。

もっとも、ラブホの前身に当たる「連れ込み宿」の存在があったように、肉体関係を持つアベック(カップルの意)はゼロだったわけではありません。

性の開放が進んだ昭和期

敗戦をきっかけに西洋文化が入ってくると、それまでの反動を見せるように性倫理も奔放になってきました。

1960年代末から日本に入ってきたヒッピー・ムーブメントはその代表例で、ヒッピーとは社会の在り方に逆らって新しい秩序を求めた人々を指します。ヒッピーは性文化の抑圧を取り払うため、フリーセックスを旨としていました。

ヒッピームーブメントを別にしても、1960年代は若者の性の乱れが問題になっています。1960年代前半からは同伴喫茶に出入りする青少年が社会問題となりました。同伴喫茶とは、休憩だけのラブホテルのようなものです。

昭和期の夫婦間セックス

夫婦間のセックスは現在よりも盛んであったと言われています。昭和期は40代という高齢になっても夫婦間でのセックスがそれなりに多く行われており、若年夫婦の間でも現在より濃密な付き合いがありました。

昭和期の夫婦がセックスを多く行えた理由として、お見合い制度の存在が指摘されています。

自由恋愛の末の結婚が主流の現在から考えると、お見合い結婚ではお互い燃え上がらない印象を受けます。

しかし、もしも性の相性が合わずに別れてしまっては、お互いの家のメンツが丸つぶれです。そのため、夫婦はお互いに努力して性的にも良いパートナーであろうとしました。

別の方面から見ると、1971年の第2次ベビーブームでは、新生児の出生数が200万人を超えています。2018年の出生数は90万人超であり、現在よりも夫婦間の性交渉が多く行われていたことは間違いありません。

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